2009年11月17日
ベネシュ布告の争点
布告では言及されていないにもかかわらず、チェコスロバキア市民であったドイツ人およそ260万人を1945年から1947年にかけてドイツやオーストリアに強制移転(追放)した事件である。布告支持派は、東ヨーロッパからのドイツ人の脱出はポツダム会談において戦勝国が取り決めたことであると主張している。
連合国の間でも、ソビエト連邦がイギリスとアメリカに対して、ドイツ人の民間人や、ドイツ語を話すとされたポーランド人、チェコスロバキア人、ハンガリー人、ユーゴスラビア人、ルーマニア人を連合国の占領地域に追放するよう求めた。ポツダム協定にフランスは参加しておらず、1945年7月以降にドイツにおけるフランスの占領地域に逃れてきた追放者を受け入れなかった。
ポツダム協定では残りの連合3か国が、中央ヨーロッパの多くの国からの追放者をドイツの占領地域に受け入れることで合意した。この3か国は、数百万人にも上る難民に衣食住を提供することが過大な負担となるため、チェコスロバキア政府に対して追放措置の実施を求めるということも、禁じるということもしなかった。実際には逆に、3か国はチェコスロバキア政府に国外追放者を減らすよう求めていたのである。チェコスロバキア政府は国内の数百万人の市民から没収した財産を再分配したことで支持を拡大させていった一方で、イギリス政府は戦争で疲弊していた自国の有権者に対して、ドイツ人難民により多くの支出をしなければならないということを伝えることが迫られていた。
ソビエト連邦にとって、民族ごとに対する残虐行為や大量没収はその後の集団訴訟の発端となった。加害者や暴利を得た者たちは略奪品をふたたび明け渡すことや罪に問われることを避けようと、自国においてソビエトの支配継続に頼るという状況に陥っていった。さらに大量没収によってほかのチェコスロバキア人の財産権に関する法的基準が緩められ、チェコスロバキアはその後、ソビエトの影響下にある国となっていったのである。
布告に対して賛成を唱える側も反対を唱える側も概して、布告の法的強制力によってチェコスロバキアはドイツ人やハンガリー人のマイノリティに、ナチス・ドイツやハンガリーへの利敵協力行為があったとして、財産没収やドイツ、オーストリア、ハンガリーへの国外追放を実行して処罰したのであると考えている。この利敵協力は、チェコスロバキアからの分離とナチス・ドイツおよびハンガリーへの併合を求めて戦闘したさいにあったとされている。布告支持派はこのときの戦闘を民族統一主義とするのに対し、布告否定派は、マイノリティの自決権は第一次世界大戦後に否定されており、彼らの民族的な地域は彼らの望みに反してチェコスロバキアの一部にされたのだと主張している。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ベネシュ布告は正式には共和国大統領布告と呼びます。
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